祝辞

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少し大きくなった司会の声で、ふと我に返った。最近の若い人間は、こんな年末に結婚式を挙げたりもするから困りものだ。しかし、確かに夫が結婚記念日を忘れるようなことはない日かもしれない。この年にもなると付き合いでの出席も多くなり、このような場が苦手な私にとっては窮屈なものだった。司会のスピーチが軽やかに進む。揺れるキャンドルの明かりの中で、周りの人達がいかに幸せな表情であるかに気付く。初めて花嫁の美しさに目が留まり、出席状に目を落とし、今夜の主役の名前を確認した。少し珍しい苗字だ。以前に同じ名前の女性に出会ったことがある。思えば、あの時も同じ時期だった。


何故あのようなことをしたのかと尋ねると、彼女は寂しそうに笑った。私が北陸の小さな署に赴任していた時の話である。もう20年になるだろうか。あの夜、彼女が語った言葉は今でも心に深く残っている。しかし彼女の、子供達への愛は、伝わることは無かった。


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地方の駐在所は住居と同じ棟になっているものが多く、地域を任される巡査は、家族と駐在所に住むのが普通であった。私は当時まだ独身であったので不便も多く、近所の方々が色々と世話をしてくれたりもした。彼等は警察官に対し、守ってもらっているという感情があるのだろうか。特にそのようなことを言うわけではないが、昼食の余りなどを持って来てくれ、談笑などで暇な時間を潰していた。そんな人々の中に彼女はいた。当時はどこの家も貧しいものだったが、矢張り特に貧しい家庭もあった。彼女の家なども、夫が酒を飲み定職に就いてもいなかったので、あまり暇な時間があるわけではなかったのだが、彼女はよく私の貧しい食卓に花を添えてくれるのだった。夜に赤子を背負い、5歳ぐらいの男の子と手を繋いで銭湯に行く姿をよく見かけた。どうやらその通り道に駐在所があったらしく、暗い道が多いですからと感謝の言葉を告げた。


夫が死んでからも彼女はよく働いた。もちろん楽ではないだろうが、しかしまだ彼女は駐在所によく顔を出していた。その頃になると、もう食事などを持ってくるでもなく、ただ仕事の疲れを会話で癒したいというようなものだったのかもしれない。そうゆう意味では、あまり喋らない私などは良い相手だったのだろうと思う。子供達も少しづつ大きくなり、彼女を支えているようだった。数年での付き合いで、私は彼女の人格に触れ、その高潔さに打たれていた。赤貧を恥じず、そっと笑う純粋さが彼女にはあった。


彼女が盗みを働いたという知らせを受けた時に、私はそのような訳で大きく動揺した。私は警察官として、多くの人間を見てきた中で、犯罪を犯す人間の種類というものを知ってるつもりでいる。もちろん盗み程度の軽犯罪ならば一時の気の迷いというものもあるかもしれない。しかし、彼女はそんな憶測すらも遠ざける人間であった。これは公的な立場の人間が言うべき言葉ではないかもしれない。しかし、理屈に合わない。それが私の気持ちであった。


駐在所の奥へと彼女を入れたのは初めてだった。外には粉雪が舞っていた。うつむく彼女に事情を問いただす。ストーブの蒸気が窓を曇らせ、ガラス越しに見る雪は不自然さを感じる。どこか別の土地の情景を見ているような感覚に囚われた。思わず振り返った私は、この場に彼女がいることが、この違和感の原因だということが分かった。会計事務を任されていた彼女は、金庫の番号を知らされていた。警備員が取り押さえた時は深夜だった。彼女は一度、家に帰ってから、再び工場に向かったということになる。しかも日取りが悪かった。給料日の前日である24日は、事務所の金庫には工員の給料が納められていた。これでは計画的な犯行と言われても反論のしようがない。


普段は聞き分けの良い息子が、珍しくわがままを言ったらしい。これが犯行動機だった。むろんプレゼントをねだったわけでもあるまい。幼い息子も、母がどれだけ苦労をしているのかを知っていた。しかし、給料日の前日である。遅くとも明日の夕刻には子供達に、普段よりは少し豪華な食事ぐらい取らせてあげられた筈である。私には、理解できなかった。


ただ、とつとつと語る彼女の声を聞き、暖かい部屋で薄ら寒いものを感じていた。



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祝辞が述べられた。私は、おざなりに拍手をし、その場に合わせる。


今夜の式は温かかい。会場の人々を笑顔にさせる雰囲気があった。主役の人柄だろうか。呼ばれた立場としては、いくら付き合いとはいえ、このような気持ちにさせてくれるのは有難い。古い思い出が呼び覚ました陰鬱とした感情も、少し和らいだ気がした。この世には確かに、幸せな人達がいる。


あれから3年ほどして、長男が彼女を刺したと耳にした。私はその時すでに東京へと出ていたので、詳しい事情は分からない。しかし想像は出来る。地方の悪い噂は早く、幼い少年の心は取り戻せないほどに傷つけられていたのだろう。刑を済ませて出てきた彼女を世間は温かく迎えはしなかった。彼女は幸いにして一命を取りとめたが、その惨事を目前にした妹は精神的に病んでしまったという。一度、彼女を見舞いに行った時も、病院のベットの横に空ろな目をした少女が座っていた。あどけなさの残る少女の頬に刻まれた陰惨な影に、私は目を背けずにはいられなかった。しばらくして彼女ら母子は、背中を丸めてその地方を後にした。私はその後ろ姿を見送りながら、言葉に出来ないほどの空虚を感じていた。



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子供が腹を空かせていまして


親は駄目です。あれは、死にたくなるものです


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彼女の夫が死んでから一度、彼女に自分の元へ来るようにと誘ったことがあった。しかし断られた。子供達の父親は、一人でなければなりません。父が二人というのは、子供には不幸なことです。当時は気付かなかったが、彼女の目に漂っていたのは、確かに母の情欲だった。彼女は女である前に、いや人間である前に母親であった。しかし、子供達にはその情欲は重すぎた。あの夜の駐在所の奥で、私は彼女に戦慄していた。母としての情欲の強さが、彼女を狂わせた。


ふと思うことがある。もし彼女が自分の元に来ていたら、子供達は幸せになれたのだろうか。母が捕まることもなく、兄が人を傷つけることもなく、あの幼い少女は笑顔のままでいられたのだろうか。それは、何より彼女が望んだ子供達の姿だったのではないだろうか。あれから、あの母子の噂を聞いたことはない。人づてにも、何の話も入っては来なかった。どこでなにをしているのだろう。そう考えることもあった。しかし、月日は流れすぎていた。遠い地で私がなにを考えたところで、それはもうなんということもない。

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式が終わり、席を立った。花嫁の母親へと目が止まった時、私の時間は再びあの遠い北陸の地へと飛んでいた。




なるほど、やはり珍しい苗字だ。


娘がこの日を式日に選んだことが、彼女等が過ごしてきた時間の答えなのだろう。彼女の、彼女としての母親は、子供達にしっかりと届いていた。繋がっていた。結ばれていた。見れば横には兄の姿もある。愛嬌のある、当時に私を父親になる決意をさせた笑顔だ。再び、花嫁の母へと目をやる。涙を流すその姿は、矢張り当時のままに美しかった。



おめでとう。今夜は呼んでくれて嬉しかった。