ふとした瞬間に蘇る記憶というものがある。今まで生きた中で作られてきた、様々な思い出達。しかし唐突にやってくる彼等は、得てして強烈に心をえぐる種類のものばかりだ。人間の脳には辛い思い出ばかりを溜め込む器官があるらしいが、残念ながら楽しい思い出達は唐突に蘇ってくれることが少ない。彼等は何の前触れも無く。その暴力に遭った僕等は為すすべなく。ただ呆然と立ちつくすしかない。



いや、記憶が蘇る瞬間に切っ掛けが無いわけがない。例えばレストランでメニューを見ていた時に、母親の顔を思い出したとしよう。たとえ数年会ってない間柄だったとしても構わない。それはそのメニューに母親の得意料理が載っているという、ただそれだけだった。思い出達はいつも蘇る機会を狙っている。しかし無意識の連想ゲームはいつも最悪の思い出へと記憶を繋ぎたがる。




「ちょっとオナニーの数、減らした方がいいんじゃない?」と言われた。相手はヘルス嬢だった。そこは個室だったが、それほど狭苦しい印象は無かった。テレビが付いていたのは憶えているが、何を放送していたかは憶えていない。何かのアニメだった気がする。相手は初対面だった。僕は呆然としていた。前後の会話は憶えていない。雨が降っていた。風は憶えていない。




唐突に、どうしようもない程に遣る瀬無くなり、そして道の上に立っている自分の足元を見詰めた。自分がどこに向かって歩いているのか、それを忘れているような気がした。そうだ、家に帰っているんだ。そして自分の気持ちを誤魔化す手段を模索し始める。突然の暴力に抗えるのは逃避だけだということは知っていた。それは、いつものことだろう。今日の僕が選んだのは、なんでこんな最悪の記憶が蘇ったのかを考えてみることだった。連想ゲームを逆引きしてみる。思考回路を回すことで、気持ちが脳内の深い部分まで侵入してしまうことを避けようとした。それは、自分の心の中にぽっかりと空いた空洞を誤魔化す為に選んだ手段にしては、最も相応しくないものだったことに、すぐに気付いた。


    • -


僕の地元の駅前にクリスマスのイルミネーションが灯り始めた。毎年のことだが、やはりこの時期になると、みな器用な人間ばかりだなと思う。日々の忙しさの中で、季節の行事など忘れてしまいそうなものなのに、みんな生真面目に今がいつで、明日が何の日かを憶えていながら生活している。こんな時期にはふと、自分の周りには何も無くて、実は一人なんじゃないかと思う時がある。もちろんそんな訳はないのだけれど、なんでそんな筈は無いと言い切れるのかまでは深く考えることが出来ない。




この駅前の電飾は地元で少し有名で、少し残業などで遅くなると、町は僕の知っている姿とは一変する。僕より少しだけ若い人達が、僕より少しだけ幸せそうな顔で歩いている。彼等や彼女等の手は、この寒空の下でも相手を見つけ、暖かそうに埋まっているが、僕の両手はポケットの中にあり、中に何も入っていない空洞の中で、中に何も入っていない掌を握り締めている。冬の夜の、晴れた空は、電飾の灯ですこしぼやけて見えて、かすかな不快を覚えた。しかし僕の心に、特に何かの感情が生まれるわけではない。生まれるわけがない。別にいつものように家路を辿り帰るだけで、今日の僕の一日も無事に終わる。終わる。電飾達の纏わり付いた木の下で、寒そうに立つ二人の少女を見た。ときおり体を動かしながら、その動きで寒さを誤魔化そうとしているのか、それでも彼女達はどこか暖かい場所に避難するようなことはしない。目を合わせ、すこし嬉しそうに、晴れやかに、笑いあった。「遅いねぇ」彼女達の一人が、また笑った。誰が遅いんだろう。いや、何が。その瞬間、眩暈にも似た感情が襲った。



何が遅いんだろう。それほど窮屈さを感じない個室。確かテレビが付いていたと思う。気だるい眼差し。雨が降っていた。そうだ、風は吹いていなかったんだ。ただ雨の音が聞こえていた。あらわになった四肢を隠そうともしない女性。何故だろう。この人は誰だろう。分からない。この感情は何だろう。上手い言葉で言い表せない。とにかく僕は一人だということだ。それを思い出したのだと思う。自動的に動く手足で、僕はまた家を目指す。家に辿り着ければ大丈夫なのだと思う。何が大丈夫なのかは分からない。ともかく平衡を保ちたかった。一歩踏み出すたびに、自分が左右のどちらかに傾いているかのような気がして吐き気がした。正面から、若い男が二人、小走りに近づいてきた。僕は発作的に、道端にあった角材を握った。